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以前、大阪の高校のバスケット部の男子生徒が顧問教諭の体罰を苦に自殺して問題となったことがあった。近頃は親から体罰を受けたことのない子どもが多くなっているから、他人から体罰『初体験』というのは衝撃があるのかもしれない。
 教師が冷静な心情で体罰を下すことはあり得ない。腹が立つから手が出るのである。何度言っても規則を守らない子ども、反抗的な言葉、態度。体罰が禁止されていることを子供は知っているから逆に開き直る子もいると聞く。だから思わずかっとしてしまうこともあるだろう。感情的になっているのだから、体罰は教育の一環、指導のためだったという理屈は通らないことになる。
それにしても近頃は加減を知らない教師が多い。これまでにも、鼓膜が破れたり、口が切れたり、制御が利かないようで子供を教育する立場とは思えないレベルである。今回も何十発も顔が腫れるほど殴られたという。この高校では体育科の入試が中止になり、教職員も総入れ替えするべきだと市長が強硬な姿勢をみせ、騒ぎは大きくなった。
 その後、他校でも体罰の問題が公になり、人権尊重の元教師らが体罰の無意味さを論じた。さらに全日本女子柔道の強化合宿で監督から体罰を受けたとして選手が改善を求める声を上げた。
 運動部、スポーツの世界では昔から体罰は厳然として存在していた。教師だけでなく、理由など無関係に、気合を入れる、たるんでる、試合に負けた、動きが遅いなど、何かにつけてビンタ、腕立て伏せ、正座などを課せられたものである。つらくて退部するとなるとたいていけじめとしてまた体罰がある。それを理不尽とは思わずに受け止めていた。それでも特に問題にならなかったのはなぜか。一つには、あとから考えると明らかに手加減があったこと。それに今ほど勝利至上主義ではなかったように思われる。昔は苦しいけれど楽しんでいたところがあった。昨今は勝つため、目標を達成するために指導者に余裕がなくなっているような気がしてならない。教師がのめり込んでいるのである。勝つために厳しくなり犠牲者が出る。体罰がなくても負けた者は退部したり、中には失意の果てに自殺した例もある。部活動を教育としてとらえるのは誰しも言うことだが、実際は勝つことが教育として考えている面もある。それも間違いとはいえない。勝利を二の次にするとしたらどうだろう。練習は何のためにするのか、矛盾が起こってくる。試合に出ても敗戦続きのチームで活気はみなぎるだろうか。楽しいだろうか、ということになる。やはり試合に勝利してこそ充足感が生まれるのだろう。そうなると勝つためという目標は不可欠であり、そのための方法論が重要になってくる。
 ほめることでやる気を引き出す。これは以前から言われている。今回の事件で各方面の指導経験者がそのことを改めて訴えている。教える側にどこまで余裕があるか。その余裕を持っている者が指導者であり、教育者なのだろう。
 山本五十六の言葉だったろうか、こんな言葉がある。
「やってみせ、言ってきかせてさせてみて、褒めてやらねば人は動かじ」
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品位

品位という意味を調べてみた。
1、見る人が自然に尊敬したくなるような気高さ、おごそかさ。
2、金銀の地金や金貨銀貨の中に含まれる金銀の割合。
品性の意味は、
1、人柄。品位。
2、道徳的価値としての性格(倫理学)
品格とは、
身についた上品さ、品位、気品。
気位とは、
自分の品位を誇りに思い、それを保とうとする心の持ち方。自尊心。
 
 気位は、自分に対して感じ、思うことであり、いわば自己満足ともいえるもので、あまりいい意味には使われない。気位の高い人といえば敬遠したくなる、取っ付きにくい人を指すことが多い。
 その他の、品位、品性、品格はほぼ意味がほぼ重なっている。気位と異なるのは他者が感じ評価するもので、自分でそれらが備わっているか判断することはできない。するものではない。それを思い込むと『気位』になる。
 品位、品性、品格は持って生まれた要素がたしかにあるが、培われるものでもあると思う。家庭環境、しつけ、教育等、それらを基盤とした自己研鑽。それがなければ身につくことはない。単に裕福な家に生まれ育っただけで備わるものではない。社会常識を備え、豊富な知識、飽くなき向上心、好奇心、それでも謙虚さを失わない心。
 もっとも大切なことは、人に対して、社会に対して、自然に対して、そして自分の生き方にも誠実であるか、ではないだろうか。そして不可欠なのはおごりのない知性である。困難なことである。
 上品、下品という言葉がある。下品にならないようにすることはできる。しなければならない。

大川小犠牲 学校に過失ー津波襲来予見できたー。

2016年10月26日。東日本大震災で犠牲となった宮城県石巻市立大川小学校の児童23人の遺族らが市と県を相手取り、計23億円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は市と県に対し、14億2658万円の支払いを命じる判決を出した。高宮裁判長は、当時、市の広報車が高台への避難を呼びかけていたことなどから、現場にいた教員らには「津波が襲来することを予見し、認識できた」とした上で、すぐそばの裏山へ避難させずに児童らを死なせた過失があったと認定した。

 釈然としない思いに包まれた。亡くなった児童は74人、教職員も10人命を落としている。訴訟を起こさなかった51人の児童の遺族はどんな思いなのだろう。教員の責任を問われているのだから亡くなった教員らの遺族はじっと耐えるしかないのだろう。以前、私立幼稚園と自動車学校を相手取り、訴訟が起こされたことに関して疑問を感じたが、今回も同じ思いである。

 震災から1年後、新聞に「大川小の一年」あの時なぜー残る疑問、の一文が載った。
(本文)
「一年以上もたって、ようやく(事実解明の)スタートに立とうという段階では……」
大川小の卒業式翌日の十八日、市教育委員会が遺族らへの説明会を開いたが、5年生だった次女・千聖さんを亡くした紫桃隆洋さんのいらだちは収まらなかった。
 約4時間に及ぶ説明会は、市教委や学校の不手際を追求する質疑に大半が費やされた。市教委は「第三者を交えた検証組織について、内部で話し合いを始めた」と説明したが、保護者の不信感はぬぐえなかった。
 紫桃さんも1時間以上にわたり疑問をぶつけた。校庭から避難し始めた直後に津波にのまれた子供たちのことを考え、「なぜ50分近くも校庭に待機させ、学校の裏山に避難させなかったのか」との思いが消えなかった。「我々はすべてを知りたい。そうしないと犠牲になった娘に報告できない」
 紫桃さんは震災後、助かった児童の家庭をたずね歩き、校庭で何があったのかを独自に調べた。市教委に情報公開も請求した。
 6年生だった次女みずほさんを亡くした中学教諭の佐藤敏郎さんも同じ思いだった。2人の呼びかけで、昨年6月から保護者の有志が集まるようになった。佐藤さんは「子供が犠牲になった過程を明らかにしていくのは正直つらい。でも、子供の命を預かる教員としての使命感もある」と話す。
 紫桃さんらの要望を受け、市教委は生存児童や周辺住民らに聞き取り調査を行い、1月まで3度、説明会を開いた。1月の説明会では、津波避難マニュアルの不備や教職員に危機意識が欠けていたことを認め、謝罪した。
 今回の震災をふまえ、文部科学省が設けた防災教育についての有識者会議は昨年9月の中間報告で、子供が自ら危険を回避する必要性を指摘した。岩手県釜石市は、一人一人が判断して高台に逃げる「津波てんでこ」の教えで、学校管理下の児童・生徒から犠牲者を出さなかったと注目された。
 同会議メンバ^-の藤岡達也・上越教育大教授は「あれほどの大津波は、教職員にも地域の人にも予測できなかったと思う」としながらも、「地域の災害を知り、次の世代につなげていくのが防災教育の基本」と語り、大川小の惨事を検証する大切さを指摘する。
 紫桃さんも話す。「事実関係を詰めても娘が帰るわけじゃない。でも、きちんと検証しないと第2第3の大川小が生まれてしまう」
藤岡教授の言葉が言葉がすべてだと思う。検証はしなければならない。大きな犠牲ではあるが、貴重な教訓として次代の防災に生かしていくことは当然のことである。しかし、広報によって津波の襲来は予見できていてもあれほどの巨大津波を誰が予測できたであろうか。未曾有の震災、千年に一度の地震と皆が口をそろえて言っていたではないか。それを教職員の判断ミスとして彼らに責任を負わせるのか。
 保護者の言動は憤懣やるかたない思いを教育委員会にぶつけるしかないのかもしれない。心情は察するに余りあるが、なぜ校庭に待機させた、高台に誘導しなかったと繰り返しても答えは決まっているのである。どこの学校でもまず校庭に集まるだろう。それからどう行動するか。マニュアルがなければ様子をみるのは自然の対応である。言い換えればどのように決断すべきか判断することができなかったということになる。誰も経験したことのない揺れである。迅速に子供を誘導するのは不可能に近いと思わざるを得ない。
 迎えにきた保護者もいた。残った子供をどうするか、津波の情報を聞いていたとしても10メートルを超える津波を想定することはできるはずはない。教職員も命を落としている。助かった家庭の人も状況を聞かれて複雑だっただろう。いずれ訴訟までいくのだろうか。これだけの惨状を目にして検証しないはずはない。保護者が詰め寄らなくても今後の対策は怠ることはないはずだ。
 以上が新聞に掲載されたものである。ちなみに、大川小は津波ハザードマップの予想浸水域外にあり、裁判でも地震発生当初、児童らを校庭に待機させたことは妥当とされた。

 有識者会議の結果には理解しかねる部分もある。子供が自ら危険を回避する力を身につけさせる、とはどういうことか。集団行動を否定するということか。いざというとき、てんでんばらばらに逃げてもいいということか。いったいどんな方法をもちいてその力をつけるというのか。そもそも自ら危険を回避する力とはどんな『力』なのか。わからない。自分で危険の度合いを判断する。その上でどうやって身を守るかさまざまな選択をしなければならない。それを子供に、しかも一様に身につけさせる。机上の空論である。
 文芸春秋の増刊号に多くの著名人が震災一年を過ぎての一文を書いている。その中で曽野綾子氏が言っている。
「想定外を認める」という言葉に同感した。
 事故は必ず起こる。人がかかわっている以上、完全であることはない。何か事故、判断ミスがあってそれを教訓としてより安全を期してもまた事故の可能性はある。二度とこのようなことが起こらないように、とはよく聞く謝罪、あるいは被害者の言葉であるが、また事故は起こり得るのである。想定とは人が考えるものだ。歴史をふまえた上で津波対策をとtっとしても、それが『想定』である。それを超えた津波がきたら、次はそれを教訓として備えるしかない。さもなくば高さ100メートルの防潮堤でも造って日本中を囲ってしまうしかない。
 仕方がない、諦めろといっているのではない。受け入れなければならないものがあり、対策にも限界があるということだ。
 花村寓月氏の言葉。
「今回の震災と人災は宗教者の絶望的な無力と怠慢をあからさまにした。恥を知れ」
人を救うなど、日ごろ偉そうなことを言っている輩がいったい何の力になったのだろう。

友……追想の旅

6号線をたどる旅……。
大学2年、19歳の夏、友人のI君と2人で歩いた思い出の地をたどろうと以前から考えていた。おそらく私の人生で唯一無二の親友であるI君が亡くなってはや10年が経つ。友人はたくさんいるが、彼の存在は別格であった。……

 当時はすべて歩いたが、いまは時間の余裕はないし、体力もない。車で行くことになる。だからせいぜい2日か3日の旅程である。簡単なことなのだが、なかなか実行できずにいた。理由は自分の中だけに意味があるからである。家族や他の友人と共有できるものはなく、1人で行くしかない。家族があると1人で旅行するのは気を遣うものだ。たまたま所用で妻が実家に泊まりがけで出掛けることになり、決断したのである。
 予定では日立に1泊、翌日はいわきに泊って小名浜、草野駅を回り、帰りは高速を使うつもりだ。

 7月28日、朝6時出発。
 あの日は7月11日で、あとから知ったのだが、ちょうど梅雨明けの日で猛烈な暑い日であった。
 この日も朝6時というのにむっとする外気で、窓を開けて走行していても少しも風が涼しくない。途中からクーラーを入れた。

 取手で6号線を左折して車を停め、歩いて愛宕神社に向かう。土曜日の早朝、しかも夏休みということもあって車は少ない。ふだんなら大型車が連なってくる場所だが少しくらいなら路上駐車も可能だろう。

 愛宕神社。この社の外縁に寝たのである。40年ぶりに訪れたのだが、記憶とのずれはほとんどない。昔のままである。それだけ変わっていないということなのだろうが、ただ、2人で横になったにしてはあまりにも狭い。1人寝るだけでいっぱいである。寝相が悪ければ落ちてしまうほどのスペースしかない。しばらく考えて縦列に横になったことを思い出した。中央にさい銭箱がある。それを挟んで寝たとは思えない。眠くなるまで向き合って話をしたことを憶えているから当時はなかったと思う。

 梅雨明け10日というが、あの日の暑さは尋常ではなかった。途中、いったい何本のコーラ、ジュースを飲んだことだろう。販売機があるたびに飲んだ気がする。その頃はお茶やスポーツドリンクなどはなかったから甘い飲み物ばかりで切りがなかった。そのせいで体力を消耗し、藤代まで行く予定を変更したのだった。

 野宿する場合、安心して休みたいから、管理者がいるなら出来るだけ許可を得るようにしようと決めていた。この神社の時も管理者を捜し、身分と事情を説明して許可を得た。
 蒸し暑いから寝袋には入りたくなかったが、蚊の襲来を防ぐには致し方ない。

 ろうそくを点けて寝ながら話をしていると人の影が近づいてきた。
「あんたたち、何してるの?」
中年の女の声である。言葉の調子から不審を感じてのことのようであった。
 起き上がって、許可を得ている旨を説明すると、咎める口調が和らいで、
「火が見えたから心配になってね。寝る時は消してね」
私たちは丁寧に応対した。
 神社に隣接して数軒の家作がある。その一軒に住んでいる人であった。少ししてその奥さんがコーラとトマト、せんべいをお盆に載せて持ってきてくれた。
「さっきはごめんなさいね。よかったら食べて」
聞けば同じ年頃の娘さんがいるという。今日、旅行から帰ってきて、歩いて旅をしている若者がけっこういると教えられ、
「自分の子もどこかでどなたかのお世話になっているかもしれないなって思って……」
私たちに同情してくれたようであった。そういえば夕方、同年代の女の子が大きなバッグを提げて歩いて行ったのを思い出した。
「お盆は朝でかける時に返してくれればいいわ。そこのHという家だから。朝は何時に出るの?」
「6時頃です」 
「それじゃ、その時寄って」

 蒸し暑い夜、無風であった。蚊取り線香をつけていても蚊の羽音は引きも切らない。寝袋から出た顔にタオルをかけて防ぐ。すると暑くて息ぐるしい。ほとんで眠れずに朝を迎えた。途中からI君の寝息が聴こえていたから彼はそこそこ眠ったのだろう。
 空が白みかけた頃、寝袋から出て寝ぼけ眼で煙草を吸っていると、新聞配達の男が近寄ってきて、
「読むかい」
さりげなく新聞を私のそばに置いた。そして礼を言う間もなく小走りに去って行った。
 新聞を開いて気象庁が梅雨明けを発表したことを知った。
「暑かったはずだ」
目覚めたI君と昨日の猛暑を振り返っていると、
「よかったらどうぞ」
ヤクルトの配達のおばさんである。私たち2人の間に小さな容器が2本置かれた。
「いただきます」
この人も余計な話しかけはせず、微笑みを残して背を向けた。この頃は早朝の配達だったようだ。そよ風のような親切が嬉しかった。
 そしてHさん。お盆を返しがてら昨夜のお礼に伺うと、感激のお弁当が用意されていた。おにぎりが3種。焼き鮭の身ををほぐしてまぶしたもの、梅干し、もう1つは何だったか。それに温かいお茶まで付いていた。手間がかかっている。朝早く起きて作ってくれたのだ。
「気をつけていってらっしゃい」
恩着せがましさなど微塵もない。温かい心が身に沁みた。
 取手駅で洗面を済ませ、感謝感謝のおにぎりを戴いた。
「必ずお礼に行こうな」
私たちはどちらからともなく言ったものだ。結局、そのままになってしまったが、忘れることのできない思い出となった。

 愛宕神社を後に、ふたたび6号線を走る。藤代、佐貫、牛久。つくづく車は速いと思う。
 降り注ぐ熱波の中を汗まみれで歩いた私たちの姿を思い出しながら、1時間ほどで土浦にさしかかり、バイパスの手前で旧道に入る。東京、金町から2時間もかからない。
 あの時は2日もかかったのだ。1日目の取手も2日目の土浦もまだ日が高く、歩く時間はあった。が、疲労困憊、体力、気力がついていかなかった。
 土浦では旅館に泊った。Y旅館というビジネスホテルだが、昨今のしゃれたホテルではない。モルタル造りのアパートのような建物である。
 その旅館に泊まるのは実は2度目であった。7月初め、私たちは1度徒歩旅行を試みて失敗していたのである。その時はどしゃぶりの雨。佐貫の小さな社に野宿した翌朝、I君の体調が悪くなり、止むを得ずその旅館に1泊して回復を待ったのだった。だが症状は思わしくない。何を食べても飲んでももどしてしまう。
 一夜明け、I君の衰弱はひどくなった。朝飯も食べられない。
「医者に行かなければだめだ」
大丈夫だというI君を連れて土浦の街を歩き、交番で事情を話すとパトカーで近くの医院まで送ってくれた。さらに、順番を待つ患者が外まで並んでいるのに、顔見知りなのか、警官は人の間を縫って診察室まで入っていった。
「先生、急患なんだけど診てください」
具合は悪いが、急患といえるかどうか。10数人の患者を飛び越えてI君は診察室に入っていった。なんだか申し訳ないと思いつつ、これは助かった。
 急性胃カタルという診断で、2時間ほど点滴をしてだいぶよくはなったが、このまま歩き続けるには体力的に無理があった。そこでI君は土浦から帰宅して、私はそのまま先へ進み、元気になったらどこかで合流することにした。だが、結局、私も石岡に一泊して家に戻ってしまった。情けないことだが、2人が1人になった心細さに気持ちがめげてしまったのである。特に野宿は慣れないと1人では熟睡ができない。その夜泊った6号線沿いの祠の縁では一睡も出来なかった。


 土浦の旧道から6号線に戻り、現在は小美玉市となっている竹原の交差点を右折する。ほどなく左手に小学校が見えてきた。
(ここだ……)
正門前に駐車する。夏休みで人の姿は見えない。校舎の外観はよく憶えている。当時とあまり変っていないようだ。あの時はまだ夏休み前で、訪れたのは夕方である。職員室に声をかけて一夜の宿をお願いした。
「だめだったらどこか神社でもさがそう」
「そうだ。だめで元々だ」
2人で言い合ったものの、疲れていて言葉に力はなかった。そこへ行く前に寺にお願いしたのだが冷たく断られていたのでなおさらであった。
 6、7人の教師がいて、その中で年配の教師が話を聞いてくれた。校長か教頭であろう。
「歩いているの。それは面白いね。保健室でよければいいよ」
即決であった。嬉しかった。
「だけど明日児童が登校する前に出発してくださいね」
そして1人の男性教師を呼んで何やら話をしていた。宿直の先生であった。この先生、無口で無愛想であったが、夜、私たちを先に風呂へ入れてくれたり、お茶やせんべいを持ってきてくれたりと親切な人だった。今はもう宿直という制度もないし、あったとしても通りすがりの学生を泊めることなど考えられないことである。夜、2人で真っ暗なトイレで煙草を吸った。まだ19歳、校内で吸う引け目もあったのである。


 6号線に戻って水戸を目指す。水戸も思い出深い所である。車を市役所の駐車場に入れて、まず千波湖畔で当時を思い出す。かなり長い時間休んだ記憶がある。一休みというより、もう水戸止まりと決めていて、歩く気がなかったのだ。I君の足のマメが水膨れになっていてとても痛がっていた。ずっと我慢していたようだ。
 水戸駅で寝るか、弘道館公園という場所もある。大きな町だから何とかなるとその点は心配はなかった。

 湖畔のどの辺で休んだのか、よくわからない。橋の右前方には水戸中心部のビル群が見える。この景観の感じは昔と同じように思えるが、建物の数も高さも大きく違っているのだろう。
 せっかくなので当時は立ち寄らなかった東照宮へ詣で、その後駅へ向かった。あまりの暑さに歩く足が鈍い。つくづく体力がなくなったと思う。
 駅を目指し、鉄道警察隊の詰め所をさがす。当時は鉄道公安室といった。駅舎に沿った一画にあったと記憶している。

 I君とやっとのことで駅に辿り着き、脱力感を感じながら何本も煙草を吸った。疲れていてほっとした気持などまったくなかった。まだ日は高いが決めておかなければならないのは寝るところである。それが決まらなければ落ち着かない。
 駅の待合室は広く、ベンチもたくさんある。大きな駅だから職員も多いから安心だと思った。念のため駅員に一晩待合室に厄介になる旨、断りを入れて了解を得た。夜行列車も停まる駅である。常に開放されているらしい。
 一心地ついて食事をすませ、あとは終電を待って寝るだけである。その頃には人もいなくなる。ところが繁華な街だけに妙な輩が多かった。チンピラ風の男が話し掛けてきたりする。うろうろしているのは1人や2人ではない。中あろうとにはにたにた笑いながら、「兄ちゃんたち、ここで寝るのか?荷物に気をつけた方がいいぞ」などと言ってくる者もいた。これではおちおち寝てはいられない。
(金を取られたらどうしよう)
2人で相談して、駅の構内、ホームのベンチなら誰も来ないだろうと駅長に掛け合ったが断られてしまった。疲れとともに不安が広がっていった。思案の末、頼み込んだのが鉄道公安室である。
 職員も困っただろうと思う。むろん断わられた。だが私もI君も食い下がった。その時はかなり遅い時間になっていたと思う。他に行くところがない。
「通路でもいいからお願いします」
土下座をしたかどうか、憶えていないが、2人して拝み倒すほどに懇願したものだ。
職員たちは根負けしたように苦笑していた。私たちの父親ほどの人たちである。
「しょうがないな」
責任者だろうか、
「じゃあ、一晩だけだよ」
奥に仮眠所があってそこに寝かせてもらうことになった。
「交代の時間があるから5時には出てもらうよ」
いま考えると、現場の責任で裁量されたことになる。交代した後、次の責任者がどう判断するかわからない。一般人を宿泊させたことで規則違反の責を問われないとも限らない。いまならそう考える。大らかな、人情のある人を信用する時代であった。
 さすがにまんじりとも出来ずに朝を迎えた。夜中に仮眠をとる人が部屋に入ってきて、
「誰だ?」
不思議そうに呟いていた。
 朝、数人の職員が声をかけてくれた。
「がんばれよ」「また来いよ」
みんなが『心』を持っていた。そんな感慨が心に滲む。

 鉄道警察隊の詰め所は小さいながらも鉄筋2階建ての建物になっていた。当時との位置関係ははっきりしないがJRの敷地内ではある。ほぼ同じ場所と思われる。
 訪ねてみると当然のことだが当時のことを知っている人はいない。さらに訪問の理由を話しても7、8人の職員は気のない応対である。
(なんだ、こいつ)
胡散臭いものでも見る表情である。警察組織の1つに組み入れられてはいるが、一般警察業務とは違って原則として鉄道関係に限られる組織である。何となく親しみがあるかと思ったが却って妙な硬さを感じた。帰り際、建物の写真を撮っていいかと訊くと、年配の職員が、規則なのでそれは困ると言う。そんな規則があるはずもない。昔日の公安官の温かな笑顔が思い出された。

 車で水戸駅前を通り、水府橋にさしかかる。橋のたもとの一画にわずかなスペースがある。朝早く公安室を出た私たちはその場所にぐったりと腰をおろし、通勤の車を何台も見送っていた。空腹のはずなのにまるで食欲がなかった。蓄積した疲労、寝不足のため動く気が起きない。買った菓子パンも喉を通らない。
 2人とも黙ったまま、ただむやみに煙草を吸ったり、ぼんやり渋滞の車を眺めていただけであった。立ち上がる力はおろか、言葉すら出てこなかった。

 ようやく歩きはじめたのは2時間以上経ってからである。どちらが促したのか憶えていない。重い足取りで国道沿いのとある会社の門の植え込みに休みをとったのはすでに昼近く。さすがに腹が減ってきたが見たところ店は見当たらないバイパスである。ふたたび力が抜けていく。
 奥まった事務所から中年の男が笑いながら近づいてきたのはその時である。
(なんだろう?)
I君と顔を見合わせ、すぐに吸っていた煙草を消した。まだ19歳、未成年である。会社の前で座り込んでいるのを注意されるのか?そうではなかった。
「君たち、橋のところにいたよね」
「はい……」
私たちの前を通勤途中の車から見かけたというのだった。
「ずいぶんかかったね」
車だと20分だと聞いてまた力が抜けた。
「中へ入って休んでいきなさい」
親切に事務所へ案内してくれた上、昼飯までごちそうしてくれた。事務員手作りのおにぎりとあさりの味噌汁。美味かった。元気がでた。I君のメモには日立バッテリーの看板がある中古車屋とあるが、はっきりわからない。車で走りながらさがしたが特定できなかった。

 1時間ほどそこで休み、おかげで私たちは気力を取り戻していた。
6号線を進むつもりでいたのだが、その会社で原子力研究所の話を聞いてそこを目指すことにした。いまは原発関係の施設は非難の的になっているが、その頃は最先端のイメージがあった。とにかくそこを見てみよう。

 6号から原研の施設に突き当たるまでほぼ一直線の道。歩くと長かっただろう。炎天下、延々と続く道だったと思う。
  
  車は速い。比較すべくもないことだが、ここまで当時は5日かかっている。それが4時間足らずである。原研の施設から245号線を左折、日立方面へ向かう。
 この晩野宿した場所はほぼわかった。久慈浜のすぐ近くである。はじめは海水浴場のよしず張りの中で寝るつもりでいた。だ
が夜半に雨が降り出したので港近くの巨大な鉄管に移動した。2人が寝ても余裕があるほど大きなものだった。疲れてはいたが国道のそばでなかなか眠れず遅くまで話をしていた。
 その鉄管はどこにもなかったが位置は特定できた。

 ここから日立まではいくらもない。ホテルを予約してあるのだが、あまりに早すぎる。
大甕のファミレスで昼食をとり、車を置いて泉ヶ森へ行く。きれいな湧水の深い透明感ははっきり憶えているが、もっと福島寄り、勿来の近くだと思い込んでいた。
 歩いてほんの5、6分で泉神社があった。実はそこが神社であったことも記憶にない。
 40年ぶりの泉。清らかな水を眺め、あの時もひととき疲れと暑さを忘れたものだが、木々に囲まれた静かなたたずまいの一画はほっとする。ここでしばし休憩して日立まで踏ん張って歩いたのだ。
 I君にとってはこの頃が疲労のピークだったようだ。そして足のまめも最悪だったのだと思う。むろん私も疲れは溜まっていた。だから早々に旅館に泊まることのしたのだった。
 I君の日記によると玉春という旅館だったらしい。

 この旅館、ひどいものであった。食事の内容など詳細は憶えていないが、布団を敷きにきたのが夜十時を過ぎてからで、遅くなった理由がテレビドラマを観ていて忘れていたというのだから呆れてしまう。なぜ催促しなかったのか、自分でもわからないが、部屋の隅に積まれた数十冊の週刊誌を読んで、だらだらと時間が過ぎてしまったのだと思う。
 布団に入った時、体が沈み込んでいく感覚で、たぶん数秒のうちに眠りに落ちていったものと思う。

 翌朝、日立駅の待合室で一服する。休憩というより、これから歩き始める気持ちの踏ん切りをつけるためといった意味合いだった。それほど疲労が蓄積していた。ただ、私にはまだ気力があった。問題はI君である。疲れに加えて痛みの増した足。言葉はなく、溜息ばかりがきこえる。頻繁に改札口に目を向ける。考えていることは想像できた。ここから電車に乗れば……。帰りたいがそれは口にできない。私も黙っていた。

 

自信がないのですね……

 しばらく前になるが、新聞に載った東大教授の河合祥一郎氏の文を憶えている。
お訴えーー訴える力のなさ暴露
『お訴えーーという言葉を初めて耳にした時はゾッとした。どうやら政治家が好んで使う、ここ数年の流行り言葉らしい。選挙演説で多用されるのみならず、調べてみると何人もの議員が自分のブログで平然と使っているので仰天した。それも以前取り上げた「させて頂く」と併用して「お訴えさせて頂く」などとしているのだから、あいた口がふさがらない。
 そもそも「訴え」という言葉には、相手の注意をむりにでも自分へ向けようとする強い意味があるので、これに丁寧語の「お」はそぐわない。ましてや、謙譲語の「させて頂く」をつけてしまっては、本気で訴えていないことを暴露しているようなものだ。慇懃無礼どころか、政治家として真剣さに欠け、聴衆を客扱いにしている態度を露呈してしまっている。「お訴えさせて頂く」相手は、票さえ入れてくれればいい客だという心(相手との距離感)が透けて見えるのだ。
 こんな変な日本語を人前で堂々と使わないでほしい。その悪影響たるや、甚だしい。言葉を知らないのは若い世代だけかと思いきや、実は2000年ぐらいから歴代首相は「お訴え」と言って、自ら訴える力のなさをアピールしてきた。そして、演説が上手だと言われる野田首相までもが会見で「ノーサイドにしましょうとお訴えしました」とやったものだから、思わず天を仰いでしまった。
 日本の政治の乱れは、日本語の乱れによって如実に示されている。この国が必要としているのは、「お訴え」などしない、しっかりとした指導力を発揮する人物ではないだろうか』

 同感であり、ごもっともと頷きながら力が抜けていく虚しさを覚える。本人たちは丁寧に喋っているつもりなのである。だがこんな誤用を真面目な顔で言われると、媚びへつらい、さらに国民をばかにしているとさえ思えてくる。みんな一流大学を出て、しかもいい歳をしているのである。とにかく国民のご機嫌を損ねぬよう、傲慢な顔に仮面をつけて官僚の文章を読んでいる。情けないことである。
「お訴え」はさすがに民間には蔓延していないが、「させて頂く」はかなり多方面で耳にする。印象をよくしようとおもねった物言いは聞いていて誠実さに欠け、実に不愉快である。
 
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磯崎 晋平

Author:磯崎 晋平
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